昭和四十八年七月十四日 朝の御理解
 x御解第六十五節 
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のないほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」
 

 真の信心とか、真の道とかと申しますけれども、今日ここに頂きます御理解のようなものが、御理解と、この御教えが本当に自分のものになっていないとするなら、真の道じゃないです。真の信心じゃないです、そういうようなものが残っておったら。
 昨日の十三日会の研修の時、私が申しました中に、洗脳されると言うこと。頭を洗う、脳を洗うと。キリスト教ならキリスト教で洗脳されておる。また共産党なら、共産党の共産主義を叩き込まれておると言うような場合に洗脳されるとこう申します。
 金光様の御信心で洗脳された人は、ここのところがスッキリしてます。もう全然問題にしません。もしそれが、まだ日柄を見たり、方位を見たり、迷信心的なことを言うようであったら、それは、だから、真の道じゃないと言うことです。そうでしょうね。そして、洗脳されて、次に洗心、心が洗われることになって、いよいよ自分のものになるのだと。
 力になり、徳になるとは、頭でわかったことを、いよいよ、徳にする力にするということは、いわゆる、洗脳から洗心がなされて、はじめて本当のものだという御理解と頂いてたのです。ですから、ここんところが、金光様の御信心をする、まあ言うなら根本と言うてもいいです。金光教の道が真を説くんだと言うたら、まずそこを体得するためには、まずここんところの洗脳されなければいけんのです。
 先日、私がある先生に(手紙)を書きました。その一節のところたまたま、今日この六十五節を頂きましたら、そのことを頂きますから、そのこと少しばかりですから読んでみますからね。これようと皆さんひかえて行っとって下さい。何行かですから。
 「真の道を体得するには、我情我慾をふりすて、物に執着せず、 人に執着せず、執着する心を取らねば、人の本性を失い、ついに は真の道を見失い、神徳の中にある実感も生まれて来ぬ。恐ろし いのは執着心である。自分を捨てたものの世界は、無限に広い世 界であります」と言うのです。
 私はこれを頂いて改めてですね、この六十五節に、これは、私はこの六十五節から頂いたわけじゃないけれども、このことの心、この六十五節の真髄と言うのは、今私が読んだところにあると思うのです。それでこれは大変なことだなあと思いました。
 金光教の道を、真の道と言い、真の信心と言うならばです、ここんところは、六十五節で実にわかりやすく、「日柄方位は見るに及ばぬ、普請作事は使い勝手のよいのが、よい方位じゃ。よい日柄と言うのは空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日柄じゃ。暦を見て、天赦日じゃと言うても」というように、段々わかりやすく説いてありますことは、もう金光教の信心の真の道であると言うことを表現したようなものです。
 で、金光様の信心しよっても、ここんところがもしスッキリと洗脳されていないとするならですね。さあ、結婚式に日を見らんならん、普請をするのに家相を見らんならんと、もし、皆さんの心の中に、もし少しでもあったとしたら、もう真の道をそれておるのですだから真の道を体得するには、勿論ここで「我情我欲をふり捨て」と言うておりますけれども、物に執着せず、人に執着せず、今までの考え方に執着しないということです。
 永年、言って来たんですね、日本人はそれをそうするのは、もう当たり前のこと。結婚式に黄道吉日を選ぶのは、もう当たり前のように思うて来た。それは大変、天地に対する御無礼であることも、さることながら、そういう今までの間違ってたことをスキッと捨て去ることがです、いわば執着しない心なんです。でないと「人間の本性を失い」とあります。人間万物の霊長としての、言うならば、値打ちをなくするです。そういうことを言いよると、ついには真の道を見失うてしまう。
 金光様の信心しよってもですよ、そういう迷信的なことを言いよりますと、ついにはとうとう真の道におりながら真の道がわからんことになるのです。大変なことですね。だから、いくら熱心に信心しておっても、そこんところの洗脳が本当に出来ない限り、それこそ、神徳の中にある実感も、また生まれては来ないです。
 高芝さんところのお母さんが亡くなられた時が、丁度、お葬式が翌日が友引であった。だからお届けに来とったから、お届けはしましたけれど、その後で親戚の方達が友引だから一日延ばそうと言うことになって、それでまた電報打ったつを、打ち直して、「日にちを変えますから」と言うてお届けに来ましたから、私が大変怒りました。「金光様の信心何年しよるかと」そういうようなことは言わないことを私は力説して、やはり前電報打っておった通り、翌日の友引の日にお葬式を致しました。
 もう本当におかげを頂いて、それこそ後に引くこともない、友引と言うのは後に引くと言いますね、高芝さんのところは、その時が一番難儀な時でしたけれども、それから好くなるばっかり、おかげを頂いとるでしょう、いろんな意味でも。そしてその、友引の翌日と言うのは、それこそ雨風の日でした。それこそ後から、「もう御神意通りにあれをしとらなかったらもう、お棺ば火葬場まで引っ張って行くのにそれこそ濡れしぼたれて、引っ張って行かにゃんとじゃった」と言うて、言うとります。
 そういうことがです、例えば、なら、成程、神徳の中に、神様の御恵みの中にあっても、そういう迷信にこだわると。もう神様のおかげの中に生きておるのだなあ。死んでおるのだな。おばあちゃんが亡くなった日も、神ながらなお国替えだったなあとわかるでしょうが。けど迷信心だと、明日は友引じゃてんなんてん言うところに雨風に遭わんならん時にどうなりますか、しるしいことに。
 「神ながらなおかげを頂いとったなあ」と言う、いわゆる神徳の中にありながら、神徳の中にある実感を失うのですから、ついには真の道を見失い、神徳の中にある実感も、いやもう実感が生まれて来ないです。恐ろしいのは、だから執着心である。
 私どもが観念しておることやら、執着しておることが、それは本当のことではないんだぞと、理をつくして解いておられます、いろんな角度から。だから、それをわからせて頂いたら、それを有難くそういう執着の心を捨ててしまう。そこからです、そこにはまあ、自分を捨てたものの世界は、無限に広い世界であると言う、無限に広い世界ということは限りなく頂ける世界に住むことが出来るということなんです。
 今日の六十五節を、私は、この今読みました。そのことでわかって頂いたら、この六十五節と言うのは、もう金光教の根本になるような、真の道の根本になるような御教えであることがわかりますねだから、私どもは真の道を体得しようとしておるのです。真の信心がわかりたいと言うておるのです。
 ためには、まず、今申しますような、そういった執着の心のようなものを、それは勿論、人、物というようなことですけれども、そういう、今まで頭の中に叩き込まれて来た迷信的な、日本人的な考え方といったようなものが、天地の法に合わない。いや、それが天地に対する御無礼になるということをわからせて頂いたら、それをスキッと、その執着心を取るということが、まず、真の道に入っての、それが根本をなすものであることがわかります。
 そして、本当のことをわからせて頂こうという姿勢、まずはそういう金光教的洗脳と言うものを受けなければいけません。「金光様の信心はしよるけれども、今まで言うて来た、昔の者が言うて来たことじゃけん、しとかにゃ、もし万一のことがあったら、人から笑われるけんで」と言ったことをよく聞きます。それではいつまでたっても真の道はわからんです。それでは、いつまでたっても真の信心はわからんです。
 それこそ、神徳の中にあっても、神徳を神徳と実感することが出来ません。恐ろしいのは執着心である。それを取らせて頂くことを今日六十五節から頂いたわけですね。
どうぞ。